昭和52年10月09日 朝の御理解



 御理解 第45節
 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出る釘は打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」

 慢心が出るとおかげを取りはずすと。取り外すだけではなくて、やはりおかげが受け難くなる。受けられなくなってしまう。慢心と安心は紙一重とこう頂くけれども、信心が緩んでおるときに、安心しておるならば、それはもう必ず間違いなく慢心である。勿論安心を目指すと言う事が信心ですけれども。これはそれこそ水も漏らさんような信心。言うなら信心が身についてしまう。血肉になってしまうと、そこにいわば安心の境地というのは開けてくるのであって、自分が信心を疎かにしておる。
 次々と困ったことやら難儀なことが起こっても、それに気が付かない。いうならば油断をすなと仰るのは、そう言う事だとこう思う。油断をしておるとお気付けを頂きよっても、お気付けをお気付けと気が付かん。信心が緩んでおるときに、こうのほほんとしておるというかね。安心しておるようにかに見えるけれども、それは安心ではなくて慢心だという事です。この四十五節はそのところを、非常にこう力説してございますですね。先生と言われたりね。
 身代ができたりいろいろ、まあ自分でなからにゃ出来んと言った様な事が出来てくると、つい自分より上は無いように思う。そういうところを信心によって信心の心で自分の心の、一つの定規のようなものを、何時も押し当て押し当て、いわゆる実意丁寧神信心を願っておられ、教えておられるわけです。だから自ずとだから謙虚になってくるのですけれども、謙虚が謙虚なその態度とか、謙虚な言葉とか。
 謙虚な姿勢と言った様なものが、形だけに終わると、これはよく金光教の、巧者の信者に見られるところの、言うなら、実意丁寧の化け物のようなものになって、瑞々しい何物も無い。おかげに繋がる何物も無い。それではいけません。いうならばそれこそお茶の手前じゃないけれども、形式化してしまう。そうせんならんから、すると言う様なものではいけんのです。
 それと私はよく思うんですけれども、まあそれが一つのまあ芸術とまで言われるのですから、お茶なんかの時に、こうお茶が出されますと、それを次のあのどうぞとまた真ん中におったら、両脇にさあどうぞ自分が飲む事が分かっておるとに、形だけ形式にどうぞどうぞとこう進める所がございますよね。まあそれがお茶の精神を重んじたから、もう自分が飲む事は分っとるけれども、そうしなければならんから、そうしておる訳でしょう。どうも金光教の信者の中にはね、こうせんならんとそんなのが多いです。
 はあ金光様の御信心ぶりというか、素晴らしく見えるんです。けれども心にはなんの瑞々しい有難いものも何も無い。だから勿論おかげにも繋がらない。勿論有難いなんて心は湧いてこない。多いですそんなのが。特にご本部なんか行くと、とてもそげんとが多かです。ですからねもうそれがね、いうならばあの、形式化した謙虚というようなものは、そらお茶の手前でなら、良い事かも知れんけれども、信心ではそうじゃない。
 どんなに素朴でも良い。どんなに言うならそのざまというのは良くなくても、心がそれこそ泥の様な心の状態、それこそ一切を黙って受けると言った様な、いうなら謙虚なその心からおのずとこうにじみ出て来る様なものが、私はここでは求められておるんだと思うです。だから油断をしておるとおかげも取り外すと同時に、油断をしておるといつの間にか自分が形式化した言うなら、金光様ご信心ぶりだけが身に付いて心がおかげに繋がらない、自分の助かりに繋がらないものに、なってしまっておる事があります。
 また同時に世に三宝様踏むなという、三宝様踏むと目がつぶれると、これはま穀物の上と説明が入れてありますけれども、いわゆる何時も頂きますように、大切な事大切なものです。私共信心させて頂くものにとって、一番大切なものです。ここんところを合楽理念は、非常に強調いたしますですね。いわゆる成り行きを大切に全ての事に、御事柄として、御の字をつけてそれを頂くという。もう目のつぶれようが無い。いわば目がつぶれておっても、目が開けるほどしのおかげが受けられるのがこれです。
 成り行きを尊ぶもう神様の働きそのものを尊ぶのです。成り行きといえばそれまでですけれども、その成り行きそのものが、天地金乃神様が、貴方に求め給う修行であるとする、その修行を。右左にする、疎かにするのですからね。もうそれこそまあお互い信心が無いとき、また信心が薄い時にはメクラも同然です。メクラも同然だから怖く無い物が怖かったり、お礼を申し上げねばならない事に腹を立てたりするのです。
 信心するものは肉眼をおいて心眼を開けと仰る、ですから信心の無い者うすい者は、先ずこのメクラであると同時に、または薄らぱあーっとしか見えとらんとです。ですからいうならば分からんのです。お礼を言わねばならない事にお礼を言わない。大事にしなければならないものを、踏み付けにしておる。それを、まあ如実にあの表現しておるのが、所謂成り行きを大切にする、成り行きを尊ぶ。全ての事柄に御事柄として受けていく。そういう信心が出来る所にです。
 私は本当の謙虚さというものは身についてくると思うですね。もう合楽ではここんところを、一番まあ言うなら、やかましく言うわけですから、合楽に教えを頂いておる人達は、だから本当言うたら、その天で頭を打つような事やら、おかげを取り外すような事は無いわけです。言うなら、合楽理念の芯に成る様な所を、自分の心のなかに何時も頂き続けておったら、信心油断は起こらない。目が見えないだから不安があるのであり、心配があるのであるけれども。
 そこから信心をさせて頂いて御事柄と頂いたり、御成り行きとしてそれを頂きますから、今まで見えなかった目が見えて来るようになるという事が、心眼が開けてくるのです。心の目が開けてくるのです。その辺が素晴らしい。心の目が開けて来りゃもう大丈夫なのです。一切神愛一切おかげとして頂けれる。心にはもう何時も瑞々しい有難いものが絶えない。いつも心の中に、天地のリズムを聞き、同時に聞いておる事が出来る。人間幸福の条件の全てが足ろうてくる。
 愈々豊かに心が大きゅうなっていきゃ、おかげも愈々豊かに大きゅう育っていくというのだから、ここんところをはっきり精進するのですよね、合楽の方たちは。私はその合楽理念をマスターするとか、合楽理念の確立とこう言われる。私はうちの修行生の方達に、もうここんところが確立が出来たらもう、明日からでも布教に出て良いと、私は思いますね。本当にそれを神様の御働きとして、御事柄として受けられるようになったら。だからあらゆる様々な、その形が変わって参ります、事情が変わってまいります。
 そのどのことを取ってもその有難い。これは有難く頂けるけれども、これは有難く頂けないと言った様な事はあって良かろうはずが無い。中には人間関係がある病気がある。また経済問題がある。そのどれをとっても、いうならばそれが有難く頂けれる事のために、油断をしてはならんのであり、心これは不思議です皆さん。合楽をちょっと離れたら、心が必ず大きゅうなるです。大きゅうなると言うがね、大きくなる横着になるです。支那語で横着な事を大きい心というです。日本と反対ですね。
 たいどあんなふうに申しますね、態度が大きいと、こんな事を申しましょう。横着と言う事です。シナ語ではターシンと言うんです。だから自分の心にです、そういうターシン的な心の状態があるときには、いよいよこれは自分の信心を反省して、言うなら泥のような信心を目指さなければいけません。成り行きを尊ぶとか、御事柄として受ける、そういうそれが、受けに受け抜いていくときに、心が豊かになって行く、大きくなって行くと言うのでなからなければいけないと、まあ言う事でございます。
 だから今日は四十五節を、下のほうから申しましたよね。油断をしてはならない、油断をしとらんごたるけれども、信心がこの頃どうも目が粗くなっておるのにも関わらず、心が大きくなっている。安心したかのようにしておるけれども、それは、本当の安心じゃないんだと。それがいうならば慢心だと。なるほど安心と慢心は紙一重だと。同時に謙虚な姿というものが、そのまま。お茶でするような。
 例えば謙虚さでは、それを金光教によって、体得するというなら、お茶の稽古をして、言うなら行儀作法を覚えたようなものですから、それはおかげには決して繋がりません。成程金光様のご信心ぶりは、形の上で出来上がるかもしれません。心が出来上がらなければならんために、三宝様を踏むなと言う事になるのです。ま大体ここ三つの所を、皆さんに聞いて頂いたんですけれどね。
 大声で叱ったり手を振り上げたりする様な事は無い。天は高いから頭を打つまいと思うけれどもと、こうありますけれども確かに神様が叩きなさったり。手を振り上げたりなさる様な事はないけれども、自分で自分の心を責めると言う事があります。又は自分でおかげの頂けない心を作ったりする事があります。本当に神様からいつも叱られておる様な、言うなら戦々恐々な気持ち。私が以前教祖の神様はそれこそ道を歩いておっても、畑で肥をかけておっても、神の中を分けて通りおる様なものじゃとこう仰った。
 それは私はそれこそ薄氷の上を渡るようなものだと、いう風に申しておりましたね。それは段々、神様が身近に感じられ、ああ神様って言う方は、有難いお方だなと分かると同時に、また怖いお方だなと言う実感があるからです。素晴らしいことなんです。神様にはそういう両面がある。それで自分の心を犯したり、自分の心が身体がけがれたり、けがしたり致しますと、もう罰かぶりだんせんじゃろかとこう。
 神様からお気づき頂きだんせんじゃろかと言う様な、そういう時代がまあある意味で、薄氷の上を渡って要る様な気持ちと、言うのが強かったように思います。ところがほんなら信心さして頂きゃ、その薄氷の上を渡って行く様な、それでおちおちも出来ないと言う様な。神様が怖いだけではいけません。それを段々、最近ではそれこそ朝露のかかっておる藪の中を、分けて通るようなものだという風に、この頃感じるんです。もう裾のほうがその朝露で濡れる、濡れる実感ですよあれは。
 もうだからそれは有難いというものだけです。例えばお芝居の用語の中に、濡れ場というのがあります。好きなもの同士が、あの、ささやき交わしておった、濡れ場とこう申します。そういう濡れ場と言うようなのがです。それが有難く御の字をつけて、頂けれるようになると言う事が素晴らしいんです。天地の親神様のお心を、本当に分かった私は信心だと、これはもう合楽で言っておる事は、ある意味合いでも心憎いまでに、素晴らしい事なんです。
 今まではその濡れ場と言ったようなことの中に、はあ自分なこげなこつしよるから、ああお気付け頂きだんせんだろうかと、もう戦々恐々な薄氷の上を渡るような思いで、びくびくまあ言うならしておったのが、同じ事柄の中にもその濡れ場の中にでもです、それこそ、裾のほうが朝露に濡れておる実感なんです。ただ勿体ない有難いなあ、神様にお許しを頂いてと言った様な、いうならこれは本当の信心の喜びなんです。信心しなければ頂ける心の状態じゃないです。
 ほら人間じゃけんこのくらいな事は当たり前と言うたら、もう横着になるのです。それこそそれはそのままが不行状なんです。信心させて頂く者はです。不行状かに見えて実は、素晴らしい神様の御恩恵として頂けれる手立てを、合楽理念は、それこそ心憎いまでに説いておりますね。私共がこの前の御大祭の後の、菊栄会で四国に参りました。双岩という教会に参りました。折角ああいうゴヒレイの立つ教会に縁を頂いたんですから、こちらの先生のご信心の、ま芯になるもの。
 そういう信心を頂きたいというて、私が申しましたらそこの若先生が、もう開口一番言われました。もうそれこそまあ教団だけではない、周囲からも双岩の婆さんは、エロ婆さんと言った様に言われますけれども、うちの親先生はこの性教育をもう、徹底して説かれますと言われるのです。ところがここだけはもう、私のだから考えとはもう全然天地ほど違うんです。あちらの性教育受けたら、もうなぁにも出来んです。もうとにかくだからこげな窮屈なら、もうとても私どんがとたるとは絶対出来ん。
 私はそん時の事を今日、しきりに思い出させていただいとりましたら、あのここ辺の言葉の中にですね。あの、「そげなこっでんなんてん」ち言う言葉がありますよね。「そんな事言うて」という時に、「そげなこっでんなんてん」ちこう頂きますもんお声で。だから私はどういうことやろかと思うたら、南天という字を頂きました漢字で。だから例えば金光教の信心、それはねそんなら、ああしたゴヒレイを受けて人が沢山助かっておりますからね。そらもう本当にそういう人の真似の出来ん。
 いわば修行せんならんから、その修行によっておかげ受けておられる事は事実なんですけれども、なら合楽理念は、そういう所をもういうならば、そこを反対に説きますもんね。むしろ有難く頂かなきゃならんとこを、それか何か所謂、罪悪のような頂き方でするから、自分の心がいつも責め、さいなまなければならない。私共でも過去においてはそこのところを、薄氷の上を渡るような思いであったわけです。所が段々信心が分からせて頂いて、言うなら三宝様を踏まん事に一生懸命になる。
 いつも謙虚な心で瑞々しいまでの心の状態が開けてくる。それこそ慢心などとてもとても、そげな段じゃない。油断もいうならある意味じゃ戦々恐々な思いで、神様へこう近付こうとしている時代ですからね。すきが出来る筈はない。けどもそれではいけないんだと、今は説いているわけです。そらその事に御の字をつけて頂けよと言う事なんです。御事柄として受けていけよというのです。そう言う所が私は、世界のどこへ持っていっても素晴らしい、いわば普遍性に富んどるというのは、そういう事なんです。
 お食物でもそうです粗末にしてはならない。粗末にして成程粗末にしてはならないです。けれどもね皿を舐めるような事は、世界には通じんと私が言うのです。例えばほんなら、ここに私が支那におりましたが、支那料理なんか食べてこう食べてもう、腹一杯なりますからね支那料理は。それを最後までこう舐めて食べにゃんごたるこつなら、支那人な金光様の信心はそれだけでん嫌ち言うでしょうね。
 ほらまあレストラン辺りの、いうならね、アメリカ人辺りに言うて、もうそれこそあの米一粒でもお粗末にしちゃならんと言うて、こうかすって食ぶるごたる事を言うならば、もう、それだけでも下作かち言うでしょうね。適当に頂いたらそれはもう人に食べかすを食べさすわけにいかんからそれは捨てていく。神様はね命のために与えられたんだから。だから命のために頂く事だけは忘れるなよ。
 だから合掌せずには頂かれんのであり、命のために頂くのであるから命を害するために、勿体なかけん食べとこてんなんてんち言うてから、腹んせいたち言うなら、かえって御無礼になるでしょうもん。と言うてですこれはこれはまた、私の信心ですけれども。これは私自身としては、だから醤油一滴でも粗末にならんように、もう始め注ぐときから心掛けて注ぐし。またいうならばかすってお茶の手前するように、綺麗にすすいで頂きますよ。けどもこれはひとに強要することじゃない。
 そうしたから、罰かぶると言った様な事は無い。けれどもひと粒の米でも、押し頂く心の状態が段々段々開けてきたらですよ。ならアメリカ人に金光様の信心を教えて、本当に食物の有難い事を教えて、そしてひと粒の米にも命があると言う様な事が、今度アメリカ人自身が分かってきたら、言わんでも教えんでもそうする事になるでしょうね。だから金光教の信心は、もう実にその素晴らしいというか広いです。だからほんなら今の性教育じゃないですけれども、人間の命のために全てがあるのです。
 だから有難く頂くという、だから、身体を害するようなことでは、御無礼ですけれども。お食物がいうならば適量に頂く事によって、それが血肉になるように、またそこに本当の幸せを感じるように。そういう頂き方から神様頂きますであり、有難うございますと言う事になって来る訳なんです。頂き終わったら、有難うございますである。そういう言うならば頂き方。だから天地の親神様が、私共の双岩の教会のその事から、そげなこってんなんてんち、神様がお声で頂いたんです。
 あら結局この辺の言葉じゃけん、どう言う事じゃろかと思うたら、その南天という事を漢字で頂きました。皆さんの所でもそうでしょうけれども、お便所の脇には必ず、南天を植えます。あれはあの毒消しという意味だそうです。だからお赤飯なんかをお配りするときには、上にこう南天の葉を置いてするでしょう。毒消しだそうです。例えば人間ですから、そこに不浄を感じれん事はないです。感ずるからこそ手を洗うたりするわけなんですから。けども心に不浄のあるときには。
 先に断りおいて頤いあることを頼めと、教祖様は仰っておられるのです。不浄になることをせじゃいかんという事は、絶対ないです。心に不浄になる時には、それは、なら自分でそれを不浄は、不浄なりにすると、自分で自分の心の呵責にさいなまれなければなりません。ですからその事をです。いわばそげなこっでんなんてんである。南天で毒は消していけとこう言う事なんです。そしてそういう事は。それはあの程度においてはあるかも知れませんよ。
 ほんなら程度においては、御霊様の事を言うたり。撫でたりさすったりでもやはり、徳を受ければ病気が治ったり。一生懸命御祈念しただけでも助かったり。けども金光様は、そう言う事で助かるのではなくて。道の道理にあったいうならば、大切なものを踏み付けるような事をせん生き方を身に付けて行けとこう仰る。なるほど人間のいうならば、あげんした、こげんしたと言った様な事がです、いちいち神様が目に角を立てなさるような事は無い。ただ、自分が自分の心で苦しむだけなんです。
 そういう時になら私共が信心頂いておるおかげで、それを合掌して受けれる状態。または頂き終わったら、有難うございますとお礼を言う心。もう本当言うと信心が段々高められてくると、それこそそげなこっでんなんてんと言う様な事をです、お粗末とか御無礼とか道を間違えとるとかと言った様な事になりかねない訳なんです。私から色々私が聞きます、聞いたりあの皆さんが言ってることを聞いておりますとね、もうそげな事が、お粗末御無礼になるこつが無かがのと。
 そげなこつは、道というはもう教祖様の教えを守るほかは無いのですよと。あんたどこの教会行きよったつが、どこの教会に行ったらあんた、その道を間違えとるけん、おかげ落とすよと言うて、まるきりあの脅迫するような先生がおるです。この頃もある教会の人が参ってきた。そしたら先生からもう散々脅迫された。それでやっぱびくびくしてから、参って来きらん。
 それからあることでどうでも合楽でなからにゃ出来んようなお願いがあったから参ってみえて「この頃えらい、お参りが出来んの」ち言うたら実は先生から、こうやってもう、いうならば脅されているわけです。けどもあんたが脅されて怖いならやっぱ、参ってこんが良か。けど「そげなこっでんなんてん無かばい」と言う事になったら、問題は無いわけなんです。もうそげなこっでんなんてん。
 例えばいうとこれはいうなら、この南天はね頂いていく生き方。今日はこの四十五節から、この三つに分けてお話をして、最後の南天の事は、この四十五節から感じられる事。また次のね、余韻です。言うなら、神が手を振り上げたり大声をしたり、と言う様な事は無いけれども、大声で叱られておるかのように思うたり、手を振り上げられて、今にも叩かれそうな心の状態と言った様なものがあっては、おかげは受けられないと言う事を、今日聞いて頂きましたね。
   どうぞ。